知ってる?紅白『米津玄師』の一曲で一躍〝超〟有名になった大塚国際美術館【誕生秘話】と大塚製薬
(2019.5.10更新)
【Notice of today:一歩立ち止まってみて】
2019年5月1日、【平成】という元号が役目を終えて、新元号【令和】が制定されました。【新しい時代】がスタートしました🌄
今回のテーマは、『大塚国際美術館と大塚製薬との関係性』について。以前からUPしたいと考えてきたテーマです、お付き合いください。
もくじ
🗺米津玄師〝テレビ初歌唱〟の舞台
ご紹介する
〝大塚国際美術館〟
は、第69回を数えた〝平成最後のNHK紅白歌合戦〟で、シンガーソングライターの米津玄師(よねづけんし)さんが「Lemon」という曲を披露した場所。
日本の大晦日の一大イベント
〝NHK紅白歌合戦〟
で、日本を代表するアーティスト
〝米津玄師さん〟
がパフォーマンスを披露したことがキッカケとなり大きな話題となりました。
それまでメディア露出の少ない米津玄師さんがテレビで生歌を披露する。このことだけでも大きな関心を呼び、大晦日を迎える前から注目されていた出来事。
生放送をご覧になった方々の多くが、映像から伝わってくる〝神秘的な魅力〟に日本各地で心を震わせました。
徳島県出身の米津玄師さんが会場にセレクトしたのが、徳島にある大塚国際美術館の〝システィーナ・ホール〟。
ここは、ミケランジェロの作品が天井画・壁画として大きく広がる礼拝堂のつくりになっています⤵⤵
🗺「一握りの砂」
米津玄師さんのファンの方々にとっての聖地の1つになった大塚国際美術館ですが、私が大塚国際美術館のことを記事にするのには理由があります。
「どうしてもお伝えしたいストーリーがある。」
「一握りの砂」のお話をさせていただきます。
「一握りの砂」というのは、大塚国際美術館の館内にある〝パネル〟や〝マップ&ガイド〟で紹介されている
美術館の初代館長〝「大塚正士」さんが残した言葉の数々〟と〝大塚国際美術館誕生のストーリー
です⤵⤵
🗺今は小さいけれどそのうちに…
大塚国際美術館は、大塚グループ創立75周年記念事業として設立された
【世界初の陶板名画美術館】
です。
1,000余点の陶板による西洋名画を
環境・系統・テーマ
の3つの方法で展示している美術館で、世界各地に点在している誰もが知っている名画を陶板として忠実に複製したものに触れることが出来る場所です。
※以下、大塚国際美術館マップ&ガイド「一握りの砂(大塚国際美術館初代館長大塚正士)」より
昔を思い出しますと、私が5歳の時です。父・武三郎が大塚製薬を創業しまして、私を肩車で工場設立の現地に連れていってくれました。
親方の工場と比べてあまりにも建物が小さいので
「お父さん、うちの工場ってこんなに小さい工場かい」と言いますと「おぉ。今は小さいけれどもそのうちに親方の工場より大きくするぞ」
と、その言葉がまだ耳に残っております。
🗺強い想い「徳島県に貢献する」
我々が美術陶板の開発に着手したのは、今から27年前のこと、私が大塚グループ各社の社長をしておりました時に、
大塚化学の当時の技術部長と技術課長の2名が私のところにやって来て、一握りの砂を机の上に盛り上げた
ことからはじまります。
「社長、実はお願いがあるのです。」
「その砂はどうしたのだ?」と尋ねますと「これは鳴門海峡の砂です。」と言います。うちの工場は紀伊水道に面していて白砂海岸がずっと海峡まで続いており、その白砂です。「実はこの砂でこれからタイルを作ろうと思っております。この砂はコンクリートの原料として採取し、機帆船で大阪や神戸へ陸揚げして、建築用としてトン幾らで販売しているのです。しかし、これをタイルにして1枚幾らで販売すると非常に価値のある商品になり、
徳島県のためにも、また大塚のためにもなります
ので、是非とも県知事に話してこの白砂を採取し、タイルを作る許可を貰ってほしいのです。」とのことでした。彼ら2人は大塚が着手しないのなら会社を辞めるとまでの大変な意気込みでして、私も感心したのです。
この出来事を機に、大塚グループと陶板の関係性がスタートし、大塚は大型美術陶板の開発に成功します。
🗺「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」
実際に名を残せる人は非常に稀です。しかし、写真陶板で自分の姿を永遠に残すということならば誰にでも出来ます。
私も祖先は曾祖父辺りまでは知っていますけれども、その上のじいさんばあさんはわかりません。皆様も同じだと思いますが、それは
写真がないから
です。
我々は、日本の現在の真実の姿を後世に伝えていかなければならないし、また一家の先祖を尊ぶためにも「先祖に供養」「両親に孝養」というのが、我々子供としての務めですから、そのためにも立派な写真(肖像)陶板をカラーや白黒で作成したわけです。
このような⤴⤴〝写真陶板というカタチ〟によって「自分の姿を永遠に残す」という壮大なマインドは、大塚正士さんが昭和50年に体験した〝ある出来事〟が影響したことについても述べられています。
🗺転機とモスクワの地
陶板制作のための技術力習得の難しさ、オイルショックによる石油価格の高騰など、紆余曲折の末に現実化させた大型美術陶板の開発。
背景には、こんなエピソードも⤵⤵
昭和50年、私は大鵬薬品の制癌剤の契約でモスクワに行った折に、郊外の墓地をお参りしましたが、フルシチョフ氏のお墓には氏の写真や、別のお墓には大戦で戦死したソ連兵士や看護師の名刺大の写真が、貼ってあるのを見ました。
フルシチョフ氏の写真は、日本の週刊誌くらいの大きさでしたが、これは無論タイルでなく紙写真ですから、表面をビニールで覆ってあるので雨は避けるものの太陽の紫外線は避けられず、新仏でまだ日が経っていないのに写真の顔は、焼けたり、くすんだりして色褪せておりました。
その時私はこれを陶板に焼きつけることが出来れば非常に立派な写真が出来て、永遠に変色なしに保存出来ると気が付きました。
フルシチョフ氏の写真は、日本の週刊誌くらいの大きさでしたが、これは無論タイルでなく紙写真ですから、表面をビニールで覆ってあるので雨は避けるものの太陽の紫外線は避けられず、新仏でまだ日が経っていないのに写真の顔は、焼けたり、くすんだりして色褪せておりました。
その時私はこれを陶板に焼きつけることが出来れば非常に立派な写真が出来て、永遠に変色なしに保存出来ると気が付きました。
🗺設立~徳島への感謝をこめて~
大型美術陶板・写真陶板の製作に成功した時は、丁度大塚は創業50周年でしたし「これで何か後世に残るもの、我々だけのものでなく、皆様と共有出来るものを作ろう」という話がありましたが、それが実現せぬまま、おやじは80歳で亡くなりました。
それから25年経ち、とにかく終戦の時はたった17名の社員であったのが現在は社員23,000人に、殊に徳島県では社員7,000人の企業に成長致しましたことですし、永年大塚が徳島県にお世話になったお礼のために、おやじの遺志でもあり私も同様に考えておりましたので、75周年記念事業として是非とも徳島に造らねばならない、と現地の地、鳴門海峡に西洋の名画のみの美術館を造って、皆様に見て頂くという考えで「大塚国際美術館」を設立致しました。
🗺学生の時に此処の絵を鑑賞していただいて…
色々な学生に美術を教える、ということを基本に考えて古今の西洋名画の中から選んだ作品を展示してあります。
これをよく見ていただいて、実際には学生の時に此処の絵を鑑賞していただいて、将来新婚旅行先の海外で実物の絵を見ていただけたら我々は幸いと思っております。
大塚正士さんのお言葉の通り、陶板という形ではありますが、誰もが知る名画が原寸大で忠実に再現されたものを近くでじっくりと見ることが出来ます。フランス・パリにあるルーブル美術館でモナリザを1センチ先に見ることなんて出来ません。大塚国際美術館では直接触ることが出来ますからね。
いかがでしたか?
大塚国際美術館に込められている想い、「一握りの砂」から始まったストーリー。今後、この場所を訪れる機会に恵まれた方は、ぜひ、誕生のキッカケとなった物語を連れて巡ってみてください。
お付き合いありがとうございました。
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